受け継がれるフロンティアスピリッツ / Visit!「タイキ」/北海道大樹町観光WEB

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Story #01.

受け継がれるフロンティアスピリッツ

現在では宇宙の町として知られる大樹町。他の町にはない宇宙という『夢』を追う大樹町は、遠い昔から『夢』を追う人々が集まる町でした。開拓時代から始まった、夢を追って困難な状況に立ち向かう人々の歴史を紹介します。

十勝開拓の父、依田勉三の挑戦

明治維新後、明治新政府は対ロシアとの国防に備えて、蝦夷地(えぞち)を北海道と改名。中央官庁のひとつとして『北海道開拓使』を設置し、北海道開拓に乗り出しました。北海道開拓に大きな役割を果たしたのは、屯田兵と呼ばれる厳しい軍事訓練を受けた士族でした。しかし、十勝はロシアに対する防衛の必要性が低いため屯田兵が設置されず、出身地域ごとに数十名単位で移住してきた民間団体が、開拓の鍬を下ろしたのです。

依田勉三率いる『晩成社』の写真

依田勉三率いる『晩成社』は北海道開拓の夢を抱いて、明治15年、現在の帯広に入植。豆、小麦、ビートなどの栽培に着手しましたが、バッタの大量発生や冷害に見舞われ帯広開墾を一時断念。その後、依田勉三は当縁郡当縁村オイカマナイ(現在の大樹町晩成)に居を移し、牧畜業をはじめました。牛肉やバター製造など、時代を先取りした経営に取り組み、今日の大樹農業の基礎を築きました。

大樹町晩成にある晩成社史跡。依田勉三の当時の住居を復元したもの。

大樹町晩成にある晩成社史跡。依田勉三の当時の住居を復元したもの。

『開拓の初めは豚とひとつ鍋』は依田勉三が詠んだ詩として知られていますが、実は開拓の同志である鈴木銃太郎が、豚と同じ飯を食うほど貧した生活を嘆いて詠んだ詩を、詠みなおしたものだと言われています。

苦しい開拓時代を支えたのは、不屈の開拓精神と理想、そして仲間たちでした。度重なる苦難と貧困を乗り越えて、大樹の地に鍬を下ろした依田勉三の歴史は今もなお脈々と受け継がれ、『開拓スピリット』は大樹町に生きる人々の魂に宿っています。

ゴールドの夢をみた人々

北海道の一部の地域では金が採れ、大樹町を含む十勝は北海道開拓以前より産金地として知られていました。大樹町の砂金採取の歴史は寛永12年(1635年)から始まったと言われています。

日高を源流とした大樹町を流れる歴舟川は『大水が出る川』として古くから伝えられており、その激しい流れが川底を削り、上流から土砂とともに砂金を運んできたのです。

何度も日本一の清流に輝いた歴舟川

何度も日本一の清流に輝いた歴舟川

大樹町のゴールドラッシュ時代

大樹町のゴールドラッシュ時代は明治33年ごろ。全国各地から砂金掘り師と呼ばれる人々が、一攫千金を夢見て集まりました。当時は埋蔵量も多く、1粒5gという大粒のものもあり中には動力を使って大量に砂金を採取し、相当の利益をあげた人もいるそうです。

ゴールドの夢を追った人々の歴史は語り継がれ、大樹町では現在でも砂金堀りを体験することができます。

まちづくりに宇宙という夢を

民間企業単独では日本初となる高度100kmを超えるロケットの打ち上げに挑戦する、インターステラテクノロジズ社が本社を置く大樹町。ニュースでも大きく取り上げられ、宇宙のまちとして知られる大樹町が、宇宙のまちづくりを始めたのは1985年のことでした。

当時の町長・野口武雄が「これからのまちづくりには夢が必要だ」と言い、鹿児島県の種子島・内之浦に次ぐ国内3番目のロケット射場の候補地として、大樹町が手を挙げたことが始まりでした。

宇宙の出発地へ。大樹町の多目的航空公園

宇宙の出発地へ。大樹町の多目的航空公園

初めは町民も半信半疑だった取り組みでしたが、地道な活動を続け30年が経った今、花開こうとしています。

大樹から宇宙へ___ 。
町民が一丸となって、この壮大な夢へのチャレンジを続けています。

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